アマゾン移民物語
第一部・アマゾンの篤農家、北川さんの場合
北川勲(きたがわいさむ)さん(85歳)、大正三年(1914年)1月17日、朝鮮半島の慶昌南道に生まれる。アメリカに出稼ぎに行っていた勲さんの父親は日露戦争の開戦とともに日本へ帰国、その後朝鮮半島に移住し農業を営む間、勲さんが生まれる。第二次大戦終結後家族で日本へ再度移り住むも、洪水に悩まされた勲さんはアマゾンでの農業に夢を託す。(1999年3月20日、ベレン近郊サンタイザベル市の北川さん自宅にてインタビュー)
あなたどこ出身ですか?
東京です。
あ、そりゃ世界で一番だめなところだ。やっぱりアマゾンが一番ですよ。食べ物は豊富だしね、水は豊富だし、天国みたいなところだ。それで奥さんはいるの?
えぇ、日本から一緒に来ています。
うん、そりゃいい。早く腰を落ち着けて、兄弟とか、こっちに呼んだら良いですよ。
という、どちらがインタビュアーなのか判らない会話から始まった北川さんへのインタビュー。まずは戦時中のお話から聞くことにしました。実際はここに至るまでに45分を要していますが、このページではその部分は割愛します。
東南アジアで ー戦時中のお話ー
(車両部隊にいたから)弾を浴びるなんてことは一回も無かったけどもね。その時肺が悪くてね、軍医が早く治さないと本当の肺病になっちまうと。で、「北川は帰したほうが良い」って上に進言してくれて、朝鮮に帰れることになった。で、帰ったら回りの人が戦争の話を聞かせろ聞かせろって来るんですが、話するのもえらくてね。それでどうやってこの体を、百姓の、肥樽を担げるような体に、元に戻そうかって思って色々考えてね。あの辺の浜辺でいりこを買ってきて、自分のところは百姓だから味噌は沢山あった。で、いりこを味噌に付けてばりばり食べましたよ。これは良う効きましたよ。そんで普通と変わらんくらい元気になった。そしたらね、二,三ヶ月たってまた召集が来ちゃった。はは。
体が良くなったから来たんですね。
いや、そんなこと関係無しにね、召集するんだよねぇ。要塞司令部のなかに特設工兵隊というのを作ったんですよ。それでね、三回召集を受けました。で、そうするうちに終戦になったんです。
それで日本に帰られたわけですか。
それはそう簡単じゃないよ。終戦になった途端に、朝鮮人たちは日本人とワーッと、仇とまではいかんけれども、今までのような状態じゃ無くなったわけだ。仲のよい人達は訪ねてくれたりアジューダ*してくれたりしたけれども、一般的には「日本人は早く帰っちまえ」っていう状態だった。(*「手伝う」という意味のポルトガル語)
早く日本に帰ろうとは思わなかったんですか。
いやあ、帰ろうと思ったけどね、私の父が朝鮮に行ってからもう40年何年も経ってたんですよ。私なんか朝鮮に生まれて、その時30歳くらいだった。それまで日本を見たのは徴兵検査で福山に一回行ったとき、それから一回修学旅行で九州に行った事があった。ほとんど知らないんだ。財産を売るわけにも行かないし、金が無いんだ。全然無いわけじゃなくて、野菜を売ったり果物を売ったりした現金くらいはあった。家を売り、土地を売れば金にはなったんでしょうが、それは出来ないんだ。自分の土地だから。それにうちの親父が日本へ帰らないと言い出した。どうしてかと言えばね、親父が、俺はもう40年前に故郷を出たんだと、おれにその時五反の土地があったら俺は出ていかなかったと。それが無いからしょうがなく土地の有るところに行ったんだと。それに40何年もいて、家族も増えたから、これで故郷の福山に帰ったら、親戚の人達が「あれも、これもやったらなぁいけん」と随分頭を痛めるだろうと、それならこのままここに居て朝鮮人になって暮らしたると、そんなことまで言うんだ。そうもいかんだろうと、いうことで私と家内が身が軽かったもんだから「先に行ってみる」と、あるだけの金と持てるだけの荷物を持って帰った。
日本へ
朝鮮に住んどったときの友達が山口県におって、戦争が終わって帰った朝鮮人の家と小作地を借りて住んだんです。で家族に手紙を出した。「ここには家も、ろくな家じゃないけどあるし、土地もある。辛抱する気があるなら食えないことはないから来い」と。そしたら親父が喜んでね、家と土地があるなら直ぐ帰ると。なんでこんなところに居るものじゃって。
やっぱり帰りたかったんですね。
そうなんですよ。それで帰ってきた。
そこでは上手く行っていたんですか。
うん、まあ上手く行ってたんだが、そこに浅川というのがあってね。これが台風が来る毎に洪水になって。ある年に大きな洪水があったときは土手が決壊して私の家のところまで水浸しになった。土手を治してくれるよう県庁に陳情に行ったんだけどもね、その頃は水害があちこちあるから陳情がいっぱい来てるんだ。中々話が上手く進まん。そのうちにアマゾン移民の話を聞いてね、そっちの係の人のところに行ってみたんだ。
アマゾンへ
トランスアマゾニカ(アマゾン横断道路)付近で撮影した大蛇の写真。左端が北川さん。1975年撮影
そしたらトメアスの契約移民、ベレン近郊の野菜移民、ベルテーハのゴム移民を募集してた。それで最初から独立で20町歩の土地をくれるっていうベレン近郊の野菜移民に志願したんです。でもそれにはね、家族構成がよくなけりゃいけない。資金が一家族なんぼ以上なければいけないとかいう条件があったんですよ。何とかそれを果たして、家も売って、荷造りも終わった頃に県の役人が来て、「野菜移民は無くなりました」と。「じゃあわしは一体どうすれば良いんですか」と言ったら「そんなに心配はしないで良い。ブラジルは広い国で土地なんかなんぼでもある。だめになったらベレン近郊にだって土地はあるんだ。だからそこに行って自分で土地買ってやれば良いんだ。取りあえずトメアスに入って様子を見てからにしたらどうだ」と。
無責任な話ですねぇ。
うん、まあね。で、トメアスに切り替えてもらったんだ。その時に家族は家内と、養子が一人いてね。それから兄の20歳になる息子が何を思ったか「おじさん、おれもアマゾンに行きたい」と言い出した。「そりゃあ有りがたいけど、おれは兄貴によう言わんから自分で許可をとらなきゃ駄目だ」と言ったら本当にとったんだよね、許可を。そんで俺は兄貴んとこ行って「正雄をくれるそうで有難う」って言ったら「やるんじゃない!」って大声で怒鳴られたわ。あっはっは。で、トメアスに行ったらパトロンが「あれは野菜移民で独立したかったやつだから、契約の二年も持たんだろう」と言ってたらしい。まあ大勢入ったなかにはパトロンと喧嘩して出ていくものも居たし、あるいはパトロンのほうから「出ていってもらわねば」っていうのも居ったんです。まあでも三年もここに居たんじゃたまらないからね、パトロンに交渉してね。「私と家内と18の娘は勘弁してください。正雄は置いていきますから、みっちり仕込んでやってください」って頼んだら「あ、いいよ」って。で、たった6ヶ月で出してもらった。でここからちょっと行った所に土地を世話してもらって、そこでトマトを作ったんです。トマトは青枯病で上手く育たなかったんだけども野生の植物に接木して成功した。よう出来たですよ。6トントラックに一杯出したんですからね。みんなは私を「トマト作りの名人」だと言うとったよ。ははは。
その後でアルタミラ(パラー州西部の町、ベレンから750キロ)に行かれたという話ですが…
それはね、ベレンに博多という料亭があるでしょう。あそこの筒井さんのところに遊びに行ったとき「もう少し良い土地は無いか」って探しとったら「北川さん良い土地がアルタミラにあるよ」って。「あそこにいったらテーラ・ローシャ(*)がある」って。で色々本を読んだり人に聞いたりしたら、どうやらこれは大丈夫だってんで行ったんだ。(*赤い土=肥沃な土地)
その時はアルタミラはまだ小さな街だったんですよね、道路も通っていなかった。
ああ。凄く小さな街だった。それで、郡長が出て来よったよ。喜んだんだ。日本人が来たって。自動車であちこち連れて歩いてくれたよ。その頃はね、この辺の郡でも日本人来てくれ来てくれって勧誘しとったんですよ。というのは日本人が来てピメンタ(胡椒)植えてそれが採れるでしょ、そうするとそれが郡の収入になるわけだ。税金として。他には何の収入も無かったんだから、郡には。郡によっては、日本人だったら土地をやってもええゆう所もあった。
アルタミラに行ったのはお幾つの時だったんですか。
50のときだよ。これはほんとにね、家内と相談したんですよ。40でここに来たときにね、40だからまだやれるじゃろうって来たんですがね、50で向こうに行くときに、まだこれから一旗あげられるかなぁって、相談したんですよ。でもアルタミラは土地が良いからって。ははは。まあお陰で色々と面白い思いをしたですよ。
どんなことがあったんですか。
行ってから7,8年してトランスアマゾニカ(アマゾン横断道路)が出来たね。その時の大統領が名前を上げようとして。まあ悪い仕事じゃ無かったと思うが後が続かんからいかんのですよ。そいで、まあブラジルで一番大きい土木会社が来てね、その工事主任が来て、労働者が野菜を食って仕事をするから、私達のところに野菜を卸してくれるかと言う。それまでは正直いって、あそこで野菜作っても、ベレンまで行く飛行賃がなかなか出きなかったですよ。街が小さいんだもん。でもそれを境に野菜がどんどん売れた。工事会社が半分くらい買ってくれたし、また役人だとか商人とか、色んな人がどんどん増えたから野菜をどんなに作っても足りなくなっちゃった。それから1年して、あの後ろに荷物が詰めるようになってる車、そうそうピックアップ(小型トラック)を買った。しかも現金払いで買いましたよ。
自伝でも書けそうですね。
うん。思うのは、今幕末からたった130年くらいしか経ってないでしょ。ブラジルの南のほうの移民はもう90年の歴史がある。明治維新は刀でやったんだが、こっちの改革は畑を耕す戦いだったんだ。これが必ず、日本で評価されて作家なんかが来て書いてくれるときが来るんじゃあるまいかと思ったわけだ。我々がここでやったことはね、馬鹿なこともあるけれども、それも大事な記録かもしれないと。だから私はアマゾン横断道路で出会った大蛇の写真も焼き増しして配ったりしてるんですよ。
インタビュー後記
北川さんはトマトの栽培で成功した方で、すでに成功者であったにも関わらず、50を過ぎてから当時日本人が一人も居なかった場所で新たな挑戦をするという、「飽くなき挑戦」という言葉の似合うお爺さんです。でも北川さんの口から出てくる言葉に「挑戦」という泥臭さは無く、ただただ楽しい思い出を語ってもらったようなインタビューでした。98年の1月に脳梗塞で倒れてからは左足が多少不自由だそうですが、頭のほうは非常にしっかりしていて、戦時中の話でも年号まではっきり記憶しているなど、とても85歳とは思えないほどです。今回お話を聞いたのは二時間ほどでしたが、アルタミラでは日本からのアマゾン横断道路の取材アテンド等も一手に引き受けられていたそうで、その時の面白い話が沢山あるとか。次回の話には三日三晩付き合うことになりそうで、これは覚悟を決めねば、と思っています。
第二部・アマゾンの昆虫学者・ピエールさんの場合(4月30日UP)
第三部・開拓最前線のエリート医師・中西さんの場合(7月13日UP)
第四部・現代のコンデ・コマ・町田さんの場合(9月21日UP)
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