アマゾン移民物語
第四部・現代のコンデ・コマ・町田さんの場合
町田嘉三(まちだよしぞう)さん(53)、1946年1月29日茨城県古河市に生まれる。中学・高校時代を通じて常に番長だった町田さんが喧嘩以外に情熱を傾けたのが空手だった。大学4年時、全国大学選手権、型優勝、組み手3位。華々しい経歴を引っさげた空手家は、さらなる夢を追ってブラジル・アマゾンへの第一歩を踏みしめる。現在松涛館(社・日本空手協会)七段。(1999年9月15日・レストランミヤコにてインタビュー)
1968年まで日本にいました。その年に大学卒業してすぐブラジルに来ました。なにしろ小さいときから人がやらないことばかりやってたんですよ。夢を追ってたんですよね。色んな夢を。あれは確か中学校の先生だったと思うんだけど「少年よ、大志を抱け」って良く言う先生がいてね、「あ、俺の行く道はこれだ」って思った。
中学生のころからそんなこと考えてたんですか?
うん。とにかくその先生が「おまえらこの世にせっかく生まれてきたからには人と違うことを精一杯やれ」って、そんなことばかり言う人だったから。それで、高校は土木関係の専門学校にいったんだけど、卒業近くなると「もうちっと遊んでやれ」って気分になって、それで大学に行ったんですよ。家は消化器とかを作る町工場をやってました。大学卒業するときになって、おやじは家業を継がせようと思ってたんでしょうが、「いやちょっと待って。あと5年だけ時間くれ」って頼み込んで。「おまえ何するんだ」「おれブラジル行く」って。許してくれたけど、餞別は100ドルしかくれませんでしたよ。「ちょっと、東京に行くんじゃないんだから、100ドルじゃ何もできないよ」って言ったけど「お前には色々手をかけたから」って。だからブラジルには100ドルしか持ってこなかった。
なんでまたブラジルだったんですか。
大学に長島先生ってのがいてね。アルゼンチンからメキシコ、カナダを回って調査するってんで、「誰か外国行きたい者手上げろ」って言われてね、何しろ手上げたんですよ。で、長島先生がここの事業団(JICA)の当時の鏑木さんと大学の同期だった繋がりがあって、ここを紹介してもらった。当時の第二トメアスの土木技師だった方が黄熱病で亡くなってね、そのあとに農業土木を勉強した僕がちょうど入った。
一応2ヶ月くらい上智大学で言葉勉強したんだけどね、毎日寝てましたからね。ポルトガル語はさっぱり分かんなかったね。それで事業団入っていきなりトメアスのジャングルだ。でも一年きっかりで辞めましたよ。当時の吉田所長が偶然大学の先輩だったんですが、「辞めるな辞めるな」って言ってくれたんだけど、「せっかくブラジル来たんだから早く自分の道歩きたい」ってね。
トメアスでの生活はどうだったですか?
うん、自分は測量だけは得意だったんで、着いたその日から測量ですよ。第二トメアスの開発ということでね。毎日測量だった。そりゃもう楽しかったですよ。
楽しかった?? でもジャングルの中でやることなんて無かったんじゃないですか?
やること無かったけど、でもやること沢山あったんですよ。
ピストル撃てるしね。労働者と一緒に狩りはできるでしょ。夜は釣りにいったりね。猿の大群なんて見たりしてね、凄かったなぁ、あれは。労働者が「来るぞ」って。何も見えないんですが「シャー」って音がして、雨が降ってくるんじゃないかと思ったら数万匹の猿の大群の移動ですよ。イノシシ狩りも楽しかったねえ。森の生活を色々と覚えましたよ。
で、事業団を辞めてからは…。
実はどうしても空手をやりたかったんですよ。
あ、じゃ事業団職員は隠れみのだったんですね。
いやあ、実はそうでした。5月に辞めてね。その頃ここに斎藤道場っていう柔道の道場があってね。そこで寝泊まりして火木土に空手を教えました。6ヶ月か7ヶ月やりましたけどね。「ここじゃあ駄目だ」って思って、リオとかサンパウロに行ったわけです。69年9月頃でしたね。お金は1銭も持ってなかった。知り合いの空軍の輸送機にただで乗せてもらってね。日本の本部(松涛館)からリオの先生を紹介してもらって訪ねましたよ。でもお金無かったからバス乗れないでしょ、タクシー乗って着いたら先生に払ってもらった。「君初めてなのに失礼だ」って言われましたけど「でも無いものはしょうがないから。後で返しますから」ってね。
で、その後サンパウロで道場やってたアントニオ猪木さんのお兄さんから手伝ってくれないかって誘われてね。「食わしてくれれば行きますよ」って。サンパウロに10ヶ月くらい居ました。師範代みたいなことやってた。そのとき丁度ブラジリアで「カンペオンイス・カンペオンイス(チャンピオン・チャンピオン)」って言う、各州の優秀な生徒だけが集まる大会があったんですよ。それはお祭りみたいな大会だったから日本人の私も出場させてもらえてね。その大会で優勝したんですよ。決勝戦はね、何か特別なことやって勝たないと自分の名前が出ないと思ったんですよ。「始め」って声がかかって向こうがかかってくるでしょ。私いきなり座ってね、そのあと突きで一本ですよ。15秒でした。審判が誰も旗上げてくれなくてね。速すぎて見えなかったんでしょう。とにかく、その試合で一躍有名になりました。何せ決勝で倒したのがその年のブラジルチャンピオンでしたしね。
その後またサンパウロに帰って…
いや、その時決勝であたったバイアーノ(ブラジル東北部のバイーア州のひと)に誘われてね、サルバドールへ行きました。そこに指導者として10年くらいいましたよ。居る間に9回ブラジル選手権があったけど、教え子がそのうち4回優勝して4回は2位にさせましたよ。
御自身は大会には出場しなかったんですか?
ええまあ、殆どね。ブラジル人じゃないと公式大会には出られませんから。
サルバドールは良いところですよね。マッチョな空気のあるところですよね。
今あそこは道場が、小さいのも数えたら200位ありますね。ひ孫の弟子が指導してますよ。ブラジルの大会の殆どはサルバドールの選手が勝ちますよ。パラー州とどっこいどっこいかな。パラー州も二人強いのいますから。うちのせがれですけどね。21と22の息子が今年のブラジル選手権二人ともとりましたよ。
いやあ、その噂は聞いてました。その話は後でお聞きするとして。
あぁ、そうですか。
それで、サルバドールに10年居たわけですね。
そうですね。それでサルバドールで結婚して…。
奥さんは町田さんの空手をやる姿に憧れたおっかけだったとか。
いやいや、そんなこと無いんじゃないんですか(照れながら)。うちの家内は当時の生徒の奥さんの姉さんだったんですよ。そのとき生徒も結婚してなかったですけどね、彼女が来ていて、その姉さん、今の女房がたまたまパーティーに付いてきたんですよ。それで付き合って、2年して結婚しました。サルバドールで子供も3人できてね。三男が3ヶ月のときにベレンに戻ってきたんです。
それはまたなんで?
ベレンを出るときに輸送機を世話してくれた空軍関係の教え子がね、州のINTEPA(パラー州土地管理局)の顧問弁護士やってたんですよ。たまたまベレンに空手の講習に呼ばれたときに「先生、どうしたらまたベレンに戻ってきてくれるんだ」って言うからね、「俺百姓やりたいから、土地をただでくれるっていうなら戻ってくるよ」って言ってやった。そしたら「そんなの簡単だ」なーんて言うんですよ。そんなこと出来るわけないと思って無理を吹っかけた積もりだったのに。それでサルバドールに帰って2週間もしたくらいですかね、電話かかってきてね。「土地用意したから見に来い」って言うんですよ。3つの土地を見せるって。講習に合わせて見に行きましたよ。一つはカスタニャールのずっと先でね、300ヘクタールあった。カスタニャール近郊だとそれが150ヘクタール。サンタイザベルで75ヘクタール。「ベレンに一番近いサンタイザベルの土地が良い」って言ったら、「よし分かった」って。それでサルバドールにまた帰って何週間かしたらまた電話があって「登記書類全部出来たから引っ越して来い」って。
そこまでやられたら戻らざるをえませんよね。
そりゃあね、やっぱりねぇ。それで今まで一緒にやってたサルバドールの友人に「ベレンに引っ越すから」て言って辞めさしてもらった。
そんな簡単に辞めさせてくれたんですか?
いやあ、そんな訳にもいかなかった。「俺もお前に土地やるから残ってくれ」ってとめられましたけどね。ずっと二人でやってきましたからね。最初に私が道場に着いたときは生徒が60人でしたが、それを最後は1200人まで増やしましたからね。
1200人って、通算でですよね?
いやいや、朝から晩まで入れ替わり立ち代わり一週間で計1200人が通ってくるわけです。ブラジルで一番の道場にしましたから。私が居る間に支部も26に増やしましたよ。生徒が増えたのは、礼儀作法から道場訓までびしっと日本的な指導方法を取り入れたからでしょうね。支部を増やせたのも日本的な経営のノウハウを取り入れたからなんです。日本のシステムは知ってましたからね。
そんな大人数、大変だったでしょう。
ええ、とにかく多かったですから。朝の5時半から夜の9時まで一杯ですからね。助手が5人いましたから、授業一こま一時間のうち私が30分教えて、あとの30分は彼らに任せました。
町田さんが、バイーアの空手ブームの仕掛け人だったというわけですね。
ええ、まあ。でもバイアーノは戦うこととか、そういうことが好きだからあそこまでブームになったんでしょうね。カポエイラ発祥の地でもあるでしょ。今でも年に1回か2回行きますけど、黒帯だけでも400人くらい集まりますよ。
そんなに成功していて、空手をするには最高の場所だったサルバドール、懐かしくなりませんか。
うーん、皆から言われますよね。なんでバイーア出ちゃったんだって。だけどやっぱりほら、夢を追ってるでしょ自分は。1200人抱えるブラジル最大の道場作ったわけですから、それで一段落して、だからここへ来て農場始めたわけですよ。
農場ですか。
うん。サルバドールはカカオの産地なんですよ。あそこからカカオの種持ってきて6千本植えましたよ。その外に6千本マモン(パパイア)を植えました。道場もやってましたが、一時期は農業で食べてました。あの当時、20年前ですか、カカオの値段が物凄く高かったんですよ。でサルバドールは土地が凄く高かったから。ここだったらただでしょ。
お金も沢山持っていきましたよ。サルバドールじゃあアパートも持ってたし、海岸に別荘も持ってたけど、それ全部売り飛ばしてね。今のお金にして8万ドルくらいありましたよ。全部つぎ込みました。
全部!
全部ですよ。で、5年間ですっからかんになっちゃった。
すっからかん!? なんでまた?
ほら、カカオは収穫までに3年かかるでしょ。収穫の前にお金無くなっちゃって。それで肥料も入れられなくて。そこまで計算やらなかったんですよ。(笑)
それでどうしたんですか…
それでもう、家賃も払えなくてね。バイーアの舅がね、娘のこと心配してベレンまで見に来ましたよ。義理の息子がきったないアパートに住んでるの見てね、余程心配したんでしょ。2年間くらい家賃肩代わりしてくれました。
サルバドールで成功してただけに、辛かったでしょうね。
それはもう。ご飯と味噌汁にたまごぶっかけて毎日食べてましたよ。子供が小さかったからミルク代だけはとっておいてね。そしたらサンパウロとかバイーアの友達が「帰ってこい、帰ってこい」って言ってくれてね。でもね、おれ夢を追ってる男だからね、1年や2年でそう簡単に帰れないですよ。それで色々と自分の持ってるものを売ったりして何とか食いつなぎましたよ。
そんな生活がいつまで続いたんですか。
それはねえ、私も運が良かったんですよ。日本の国士館大学が海外で何かしたいってベレンに来たんですよ。私は国士館では無いですが、空手関係のサンパウロの友人が紹介してくれましてね。偉い人が来ましたよ。それでレストランで一緒に食事して色々話してね。そんな時もお金無いから、「いやぁ、ここの飲食費払えねぇなぁ。借金してでも払わないとなぁ」って思ってたら「いやいや私たちに払わせてください」って払ってくれた。こっちじゃそんなこと無いでしょ。「あれ、何か話が違うな」って。その後国士館現地法人の理事になるよう頼まれて、引き受けました。それで学校やりたいっていうんだけど、それは他にもあるから武道の学校やったらどうですかって言ったら「それはいい」って。道場の場所をどこか良いところ見つけてくれって言われて自分の口座に日本円で数千万振り込んでくれましたよ。そんな簡単に信じて良いんですかって言ったけど、「あなたのことは色々調べてちゃんと知ってますから」って。他にも日本から赴任されてきた会長さんの存在もあるんですが。で、そこで5年くらい道場やりました。理事としての報酬は全くありませんでしたけど、空手の指導者として給料もらってました。
無給ですか?
ええ、給料幾ら欲しいかってきかれたから、いらないって言ったんですよ。その代わりほら、家賃払えてなかったから、道場の建物に部屋が開いてたから、そこに住まわせてくれって言って。
それが今の道場ですね。
そうです。その後国士館がブラジルから撤退したでしょう。私がそれを銀行で借金して買い取ったんです。まだ返してますけどね。
農業は今でもされてるんですか?
サンタイザベルの土地はもう組合に売っちゃいましたから。今2ヘクタールの農場持ってるんですが、そこでココヤシを栽培して、あと一番好きな趣味、馬なんですけど、乗馬をやってます。他にも色々やりましたけどね、エスカルゴとかね。市場が貧弱だから駄目でしたね。
色々やってたんですねぇ。
ええ。色々やってましたし、これからもやりますよ。
それにしても、仕事をして、農場でココヤシを栽培して、休日は好きな馬に乗って。悠々自適ですね。
ええ、いいですよ。もう道場の会計は大学3年の長男に任せてますしね、指導のほうは次男と三男に全部任せてます。任せないと逃げられちゃいますから。どこの親父も「俺が俺が」って言うくせに仕事は押し付けるけど金握らせないでしょ。それじゃ附いてこない。仕事は任せて少なくとも金も半分は握らせないとね。
息子さん達は皆空手やってるんですね。
そうですね。一番上は余り上手く無いけどもね、初段ですね。2番目3番目は、これはもうブラジル選手権何回もとってるから。今年も2番目が成人の部、3番目が21歳以下の部で優勝してますよ。外国にも遠征してますし。末っ子は高校2年ですが、これがまた考え方が違うんです。新聞記者になるんだって言ってます。空手は余り好きじゃないんですね。
まあでも息子達に道場任せられるおかげで、私は色んな所に出られますからね。今年も色んな所に指導に行きましたが、明日からはポルトアレグレに行きます。300人からの生徒がまってますよ。その後はサンパウロ大学、そのあとマセイオに指導に呼ばれてます。日本で身につけた空手を教えられる人が貴重なんでしょう。ブラジル人には真似の出来ない指導を私は出来ますからね。空手で大切なのは目なんですが、空手の目の使い方は日常生活、ひいては人生にも非常に役に立つわけで、そういうことと結び付けた指導をしますから、空手のフィロソフィアを人生に使えってね。皆凄く真剣に聞きますよ。
大切なのは気の使い方ですよね。気迫とか気持ちとか。そういうことを教えます。
空手を始めようっていうのにはけんかに強くなりたいとか、そういう人が多くないですか。
うん、色々ですよ。勿論けんか強くなりたいってのもいるし、人と違うことをやりたいとか。人に認められたいとか。でもやってるうちに段々違ってくる。自信をつけていきます。
最近考えてる夢ってありますか?
うん、最近ね、色んな所で宝くじ買ってるんですよ。外国のね。もしそれが当たったら学校作りたいと思ってるんです。それも親がいない子供たちの学校ね。あいつらを集めて特別な学校を作りたい。何か技術を学ばせてあげられるような学校をね。まだ細かい所まで考えてませんが。じつは今も一人他人の息子育ててるんですけどね。一番下の息子が連れてきたんですけど、家で一緒に住んでますよ。家庭教師もつけてね。
え、他人の子供を?
そうです。そいつが頭良くてね。学校で1番ですよ。田舎で息子がサッカーやってるときに仲良くなってね。家まで付いてきて、「おじさん、ここに居ていいか?」って聞くもんだから「ああ、いいよ」って、翌日帰るもんだと思ってたから。そしたら帰らない。田舎では学校も行ってないっていうじゃない。で家内と相談してね。育てようじゃないってことになった。で、彼の田舎にいってね、16人兄弟なんですよ。これじゃ学校もいけない。裁判所行って書類もキチンとつくって、学校卒業して21歳になったら親元に返すってことにしました。
せっかく生まれてきたんだから何かのためになることもやらないとね。自分の好きなことばかりやってるんじゃ無くてね。
話変わりますけど、やっぱり喧嘩とか吹っかけられたりしますか?
いやあ、ブラジルでは1回くらいしか無いですね。日本に居た頃はそれこそ悪かったからね。毎日けんかばっかりしてましたけど。向こうは目で分かるんじゃないですか。「こいつはやばい」ってね。こっちもやる気しませんしね。馬鹿らしくて。相手が何考えてるか殆ど分かりますから。
今生徒さんは何名くらいいますか?
180人位ですかね。
そんなにいるんですか。
いやいや、これでも少なくなったんですよ。レアルになる前は400人いましたから。中流階級の生活が多少苦しくなったんでしょうね。うちの生徒は殆どが中流階級のひとですから。
日本に帰りたいと思いますか?
25歳くらいまでかな、サルバドールに行く前は正直どうしようか迷ってましたね。帰ろうかなって。結婚する1年前に一度日本に帰ったんですけど、その時に決めたんです。ブラジルに住もうって。ブラジルに住むならブラジル人と結婚しようと思った。皆に反対されましたけどね。人と変わったことがしたかったですから。
自分の考え方一つで、周りに集まってくる人間も変わってきますね。良い気を持っていると周りにも良い人たちが集まってくる。そういう意味で自分はいつもポジティブにやってきましたから、周りに良い人たちばかりが寄ってきましたよ。友人には恵まれました。お金には恵まれなかったけどね。
インタビュー後記
日焼けした肌にクルーカット、奥様はバイアーナで趣味は乗馬。日本の感覚からは考えられないおしゃれな武道家ですが、お話を聞くと人一倍硬派でまじめな、「空手家」という肩書きの似合うかたでした。名声と富を手にしながらも決して奢らず、損得勘定抜きに新しい夢に取り組む姿には感じ入りました。街を歩けばそこここから「マチーダ」と声がかかる有名人で、地元ブラジル社会では名士的存在の町田さん。ブラジル社会に深く溶け込み、活躍しながらも、義理人情という日本的価値観を決して忘れない姿はまさに「現代のコンデ・コマ」です。
ちなみに、馬が大好きな町田さんの「馬談義」は、このあと2時間ほど続きました。
バックナンバー
第一部・アマゾンの篤農家・北川さんの場合(3月31日UP)
第二部・森の昆虫学者・ピエールさんの場合(4月30日UP)
第三部・開拓最前線のエリート医師・中西さんの場合(7月13日UP)
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