ベレン発! 週刊アマゾンニュース

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                   Vol.107 
発行日:2004年01月22 
今週のニュースは...

【1】『フクちゃんのアマゾンニュース解説』第4段

【2】浩さんのアマゾンスケッチ第7段『純日本人』 

【3】ベレン日記

【1】『フクチャンのアマゾンニュース解説』第4弾
 

アマゾンのコミュニティフォレストリーの現状と課題

 
 アマゾンでは、そもそも土地の絶対的な所有に基づく利用というより、誰も所有することのない森林地帯で狩猟採取を営むという伝統があった。(これは森林利用の特徴なのかもしれないし、人間の本来の姿なのかもしれないが、)まず思い浮かぶのは、先住民であるが、植民地化以降も、他地域で黒人奴隷にもとづく、砂糖生産、鉱物採掘、コーヒー栽培が進んでいった一方で、アマゾン地域では先住民を奴隷化し、DROGAs da mata 「森の薬」の採取業が行われていた。薬用植物や香水の原料となる植物油、種子、樹皮などである。厳密に言えば、森は入植して開発権をもつ特権階級のものであったが、厳密に区画されたわけでもなく、先住民を中心に奴隷階級が森で採取活動をつづけていった。

 
 次に来た変革の波は、大規模なゴム開発だった。ゴム採取の場合は、多くの東北部の貧しい貧農が導入され、ゴム採取園の園主支配が進んだ。貧農達は、債務奴隷化されたゴム採取人となった。このゴムブームもアジアやブラジル南部のゴムプランテーションの発達と共に消え、ゴム採取園の森林は放棄され、ゴム採取人たちが自由に採取活動を行う土地となった。
 
 このようにしてアマゾン森林では、一時的に奴隷主やゴム採取園主などに地権が分割されたが、奴隷解放、ゴム産業の衰退と共に、土地は放棄され、地主不在で地権もはっきりしない場所で、森林を糧にする住民が採取活動を自由に行う場所となっていた。

 
 そこに1960年代から、道路開発、入植を中心とした国家的なアマゾン開発が進められた。農地改革やアマゾン開発促進のため、未利用の土地、公有地は開発すれば占有権が得られ、時効取得により土地権利を得られることになった。森林は見た目には未利用地なので、この対象となっていった。古いゴム採取園や大地主の森林地も売却された。このことによって事実上、他人、もしくは誰も所有しない公有地の森林を利用してきた採取住民は、生活の場である森林から追いやられ、その森林も破壊されることになった。
 
 アマゾンの森林破壊がブラジル中、世界中でしられるきっかけは、自然資源の破壊というより、そこで暮らす先住民、ゴム採取人の人権侵害という社会的問題からはじまったともいえる。

 
 このような中、採取住民や地権を明確にもたないアマゾン住民が森林を利用できるようにするコミュニティフォレストリー事業が現在、大きな意味を持ち期待されている。
 
   その中でも最も、インパクトがあり、影響を与えたのは、1988年に牧場主一味によって暗殺されてしまったシコメンデスである。彼はゴム採取業者の労働運動を通して、ゴム採取人を組織化していった。その中で、生活のための森林の共同利用権を求める活動をした。森林の民としてのゴム採取人が、森林を守るために森林としてそのまま利用する森林保護地を求め、その結果、採取住民の生活の権利を守るための採取保留地域が作られたのである。これは二つの意味で重要である。一つは、森林における森林住民のための土地改革であり、もう一つは住民利用を前提とした保護地域設立である。

 
 このような背景でできたのが、採取保留地域RESEXである。当初は、土地改革院の政策として、採取入植計画地としてできたが、1990年には天然資源利用にかかわる当局IBAMAの管轄する枠組みの保護地域RESEXもできた。このRESEは、NGOや社会運動組織、環境NGOとの協力を得た地域住民の組織が、政府に採取保留地の設定の申請ができる。このような採取保留地域のさきがけとして、有名なものはシコメンデスらが活動していたアクレ州のゴム採取人中心の採取保留地域、もう一つはマラニョン州にあるババス椰子採取業者達の採取保留地域である。

 
 採取人はエストラチビスタ、採取活動はエストラチビズモと呼ばれるが、この言葉自体、ゴム採取や特定の林産物を採取にかかわる語として捉えられることが多い。しかし、現在、ネオエストラチビスモとして、天然林の持続的多品種利用の最も有効な手段と考えられる活動になっている。アマゾンのゴム採取人も、もともとはゴム採取だけを強いられ、他の耕作を行うことは、ゴム採取園主から厳しく禁止されていた。これは生活用品をゴム採取園主が高く売りつけ、ゴム採取人を奴隷化するための手段であった。ゴム採取人も他のゴム採取人との接触が行えないよう離れ離れに点在させられていた。しかし、彼らは、常にブラジリアンナッツの採取を行っていたし、ゴム園が放棄され自由になってからは、その他の様々な採取活動を行っていた。木材産業にかかわる住民も少なくなかった。

 
 採取人のリザーブというと、ゴム産業のみを思い浮かべる人も多いが実際には、様々な林産物を採取し、持続的な利用を行う活動地域として、森の土地改革の一端を担っている。現在は、海岸線の伝統的漁村にもこの採取人地域が設定されつつある。
 
 
 このようなゴム採取人の運動から始まった採取地域であるが、現在は、これまで地権のあいまいさが理由で追いやられてきた森林コミュニティのための保護地域としてブラジル中に広まりつつある。また、この制度以外にも、近年の法律では、前に述べた法定保留林や森林計画制度の小規模農民、森林住民への柔軟な利用が可能となるよう改正がなされ、共同利用を視野に入れた仕組みも出来つつある、さらに他の政策にも広がり、コミュニティフォレストリーのための枠組みは出来上がりつつある。 

 
 しかし、ようやく枠組みが出来たからといって、それだけでコミュニティフォレ
ストリーがスムーズに進んでいるわけではない、森林地域は多くのグループの利害が絡む場所である。アルタミラ近郊でおきた問題のように、いざ、コミュニティフォレストリーのための地域を設定しようとしても、現実に利用している業者が排除されていたり、悪質な業者が絡む場合は、紛争となる。ときには、殺人事件などの暴力紛争にも発展することがある。また、法律上、占有地や、共同利用地等、地権のあいまいな土地に森林計画の策定が可能になっているといっても、その審査手続きが行政機関の末端まで行き届いていなかったり、土地の証明が複雑なために、莫大な時間を要する。
 
 例えば、いくつかのコミュニティフォレストリーではこうした書類の行政との手続きのためだけに2年近くかかったという例もある。そのため、実際のビジネスに結びつくことが不可能な状態となっている。これは森林計画の例も同様である。法律上は地権がなくても計画はできるが、地権がきちんとある場合とない場合では手続きにかかる時間、費用はまったく違う。そのことが経済的な事業の成立を不可能にさせてしまうのである。

 
 さらに、コミュニティフォレストリー事業として有名な事例は、生産物によって住民生活を幾分か向上させているが、その管理費や手続きにかかわる費用がまかなえるような林産物の商業化には成功していない。つまり、援助機関やNGO等の支援がないと自立できる事業はないといえる。

 
 つまり、コミュニティフォレストリーはようやくその法的枠組みが出来たといえるが、現実には未だ、様々な援助によって、成り立つ「実験室の中でのプロジェクト」の域を出ていない。
 
 手続き等を簡素化し、管理費用を削減する方法を確立し、さらに現在、外国の援助等によってまかなわれている費用を、森林保全や生物多様性保全費用として恒常的に調達できるような仕組みを構築していかなければならない。多くの場合、現在の援助は一時的な技術的支援であり、3年から5年が限度となっている。
  
 また、現在、資金や技術援助を得られていないグループにも均等に行き渡る配分の仕組みも意識する必要がある。例えば、河川沿岸で活動する小規模な木材業者の現状は、採取住民と同様の立場であるが、木材業者というレッテルを貼られることでこういった活動への参加が出来ないことは多い。
 
  政府やNGOの宣伝では、経済的にも社会的にも成功しうるコミュニティ事業とされるが、解決しなければならない点はまだまだ多い。
【2】浩さんのアマゾンスケッチ第7段

【純日本人】

 「アマゾンに別れを告げ一時帰国を決心したのは、日本の社会生活を経験したかったからに他ならない。」と言えば聞こえはいいが所謂、出稼ぎである。 
 
昭和32年10月満20歳で移住。昭和59年の10月に総領事館の推薦により、「中堅指導移住者短期研修」なる名目で27年振りに帰国したこともまた大きな理由にもなった。というのはこの研修の目的が、『日本人移住者がその属する地域社会に貢献することを期待し、その推進力となる中堅指導者を日本に招致して、一定期間研修を行ないそれぞれの分野で知識を習得せしめ、帰伯後その者が居住する地域社会の発展に寄与すること。』であった。
 帰伯後いろいろな役職に付きながら研修の目的に向かって努力をしてみたものの、力不足を痛感し日本の社会生活を経験しながら学んで来ようと出稼ぎの群れに身を置く事に相成った。

 『ベレンの日本人社会には、移住してきた人、その子供、孫、いわゆる日系人と呼ばれる日本人と領事館、JICA,日本企業や漁業などの仕事でベレンに住む日本人がいる。そこでは、日本人という言葉がキーワードになり、それぞれ良くも悪くも自分達を特別視しているような変な関係がある。例えば、公邸の食事会で領事が<今日の食事会は純粋な日本人の集まりです。>と言ったことがあります。そこには、彼の頭の中にある純粋でない日本人もいたと思います。なぜそんな言葉がでたのか、私はただ悲しい気持になりました。人を見下し、自分を守るという、弱い日本人がいろんな集まりで似たようなことを言うのです。正直言って、そんな集まりはうんざりで、その中にいる自分が、情けなくなる時すらあります。』
2000年11月20日、Friday Edition no087,FumiyoのBelem
Report
【BELEMの日本人社会より抜粋】


 『帰国した当初は、警備業会での不慣れな仕事で、出稼ぎ人夫とか日系ブラジル人<3K労働者>などと、好奇の眼で見られる腹立たしい毎日だった。だが、彼等も一応難しいと認識し、二・三回挑戦してやっと手に入れる、交通誘導検定や警備員指導教育責任者などの国家試験に、私が合格した途端に、言葉づかいや態度を改めて接するようになった、日本の会社の上司や同僚を見て、怒る気にもなれなかった。』

 ブラジルでは日系人と呼ばれ、日本では出稼ぎ人と呼ばれるにして
も、狭い視野でしか相手を判断し兼ねない純日本人になるよりも、私を、子孫を受け入れてくれたブラジルの人になり切ろうと、再びベレンに帰ってきた。 やっぱり、元日本人が一番いい。今年も頑張りましょう!!

【3】ベレン日記

  ブラジルでは、家族が手を繋いで歩いていたり、友達同士が抱擁している光景を至る所で目にする。この触れ合うという文化がブラジルの生活の中にはあふれている。逆に、日本には察するという文化がある。感じるということに優れている。この違いはなんともおもしろい。ブラジル人を見ていると、なんてシンプルでなんてストレートなのだろうと感じる。逆に彼らからしたら、日本人はわかりにくい人種なのかもしれない。

しかし、ブラジルで生活していると、見えてくるのはいい面ばかりではない。ブラジルはいい加減な面がとても多いし、信用性に欠ける面もあるし、自己主義の人が多い。しかし、だからこそ融通がきくし、人の目を気にしない。物事には、全て裏と表、光と影がある。日本とブラジルは、その違いがわかりやすいのではないだろうか。そんなブラジルの印象は、ごちゃまぜの国、なんでもありの国。そんなブラジル人の印象は、何があっても気にせず力強く生きている人たち。全て楽しむことに変えるパワーを持った人たち。                 清井智子

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